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2005年3月発足!!
ありとあらゆる芸術活動を結びつけ、
こだわりと常識の打破を目指す!!!

空間アート協会ひかりメンバーブログ

藤枝公演のレポート

藤枝公演のレポートを、青陰悦子さんがご紹介くださいました。

ぜひご覧ください。

 

ごきげんぱらぽん3

https://parapon3.blog.ss-blog.jp/2019-09-22-4?fbclid=IwAR2O-nLCul6F_uMpI81rB8TyVI7Im8PcFjnxle2kwdKmjN1sPXeM5qSMtaE

| レビュー | 12:27 | - | - |
「楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜」レビュー

反転・等価・突破──楽屋に生きつづける女優

 

アートひかり演劇公演『楽屋』(原作=清水邦夫/演出=仲田恭子)を難波サザンシアターで観劇して、演劇ならではの楽しみを味わったのだけれど、その楽しみの体感(の根拠)は、作品としての出来はもとより、俳優が魅力的に見えた、ということに尽きる。俳優が―――『楽屋』にあわせていうならば、女優がすぐれて魅力的に見える時、その舞台は魅力的である他なく、それはつまるところ、優れた舞台芸術ということになるだろう。少なくとも、『楽屋』は、戯曲自体にすでにそういう仕掛けがあり、今回の上演はそれをよく引き出していた。

 

『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』は、文字通り、楽屋に棲まう女優4人が、舞台上で女優として演じることをめぐる、業とも呼ぶべき欲望を、露悪的なまでに、しかし詩的に吐露した一幕物で、戯曲=上演自体が女優論・演劇論となっている。別言すれば、「演劇とは何か?」という問いが、戯曲=上演において実践されていくというのが『楽屋』の特徴でもある。さらに、そうした戯曲の特徴は、本作の演出家である仲田恭子の持ち味でもある。――さまざまな原作から、モチーフ/ストーリーを視聴覚化するだけでなく、それらを「演劇とは何か?」という問いに変奏しつつ上演していくのが仲田演出のきわだった特徴(の1つ)である。ならば、仲田が『楽屋』を演出したら、つまり演出プラン自体が原作に織りこまれているような作品を演出したならば、その時、舞台上では何が起こるというのか。

 

生涯、名作の主要登場人物を演じることのなかった女優が、その生を終えて後も楽屋に通っては、出番を待つかのように化粧にいそしむ。従って、彼女たちが居ついている楽屋こそが、『楽屋』においては楽屋ではなく舞台である。また、同様にして、楽屋という舞台において名作の名ゼリフを、断片的ながらも、朗々と演じる彼女たちこそは、プロンプターではなく女優である。そう思わせるに十分なほど、今回の上演において日陰の女優たちの、緩急おりまぜた巧みな語りは、存在感があった。それらは、楽屋で、プロンプターが、死者として演じる芝居にしては、心地よいほどに生々しかった。そうであれば、『楽屋』という戯曲/この上演においては、劇作の設定上は楽屋であるにせよ、ここが本舞台であり、ここで演じる女優こそが正しく女優だということになる。そして、それ以外の属性は、問われなくなる。役つき俳優/役のつかない俳優(プロンプター)、舞台/楽屋、生/死等々、大きな懸隔のある2つの世界は、戯曲の設定/演出・上演によって、反転し、等価になっていく。いや、もっと乱暴に、それらを等価にしてしまえばいいのだ、というのが仲田演出の『楽屋』であり、そこで演じる女優たちの言動であったように思う。してみれば、この上演における演出とは、楽屋という境界線がもたらす残酷な悲哀をなぞることではなく、その境界線自体を突破することにあったのだ、といえば、文字通り楽屋の芝居に騙されたということになろうか。

 

(松本和也/日本現代演劇史)

 

松本和也さんによる過去のレビューはこちらで読めます

 

◆上田街中演劇祭2018「熱海殺人事件〜長野県バージョン」レビュー

http://art-hikari.jugem.jp/?eid=219

 

◆上田街中演劇祭2017「王様盛衰記」レビュー

http://art-hikari.jugem.jp/?eid=220

 

 

| レビュー | 12:14 | - | - |
上田街中演劇祭2018「熱海殺人事件〜長野県バージョン」レビュー

上田街中演劇祭2018参加作品

『熱海殺人事件〜長野県バージョン〜』レビュー

 

 上田街中演劇祭2018のエンディングを飾る、アートひかり×二口大学『熱海殺人事件〜長野県バージョン〜』(作=つかこうへい/演出=仲田恭子)を犀の角で観劇した。破天荒で破壊的な原作の熱量に抗して、開幕から狂気を孕んだかのようなエネルギッシュな舞台表現が展開され、スポーツをした後のような心地よい疲労と爽快感、そして「演じること

の困難とその奥深さ――「演じること」の業を、じわじわと体感させられる舞台だった。

  つかこうへいの代表作(の1つ)である『熱海殺人事件』は、工員・大山金太郎が女工を熱海で絞め殺したという文字通りの「熱海殺人事件」に対して、木村伝兵衛、熊田留吉、片桐ハナ子といった曲のある刑事たちが、(犯人逮捕を目指すのではなく)殺人犯が殺人犯らしく振る舞えるように(演技!)、飴と鞭とを駆使して導いていく物語である、つまり、刑事たちが金太郎を熱海殺人事件の犯人らしく演出していく過程の総体が、『熱海殺人事件』なのだ。従って、俳優はそれぞれの役を演じるだけでなく、その役を通じて殺人犯「らしさ」を模索していくという、文字通り《演技論仕立て》(鈴木忠志)の作品となっている。

さて、今回は潤色:荒井洋文、演出:仲田恭子による『熱海殺人事件〜長野県バージョン〜』である。劇場に入ると、舞台には畳が敷かれ、ちゃぶ台が置かれた和室の設え、舞台の両

にはドラムセット、客席後方には和太鼓が置かれている。チャイコフスキー「白鳥の湖」が流れ、ドラムが鳴り響き、否応なく高められたボルテージと争うかのように、(木村伝兵衛改め)杉山伝兵衛の強くて速い台詞が、この劇の開幕を告げる。その後も、基本的にはこうしたハイ・テンションをベースに、つかこうへいの毒気のある言葉が、現在を生きる俳優の身体‐声を通じて、理不尽でテンポのよい会話劇として上演されゆき、それを彩る暴力的な肉体/言葉の嵐が、ねじりあげるように舞台の密度を高めていく。

もちろん、長野県バージョン固有の演出もみられる。先にあげた和室という舞台設定や打楽器の演奏はもとより、「熱海」は「上山田」に、「海が見たい」という女工の台詞は「高原の風に吹かれたい」へ、といった具合に、作中の設定が長野県に置き換えられているのだ。さらに注目したいのは、登場人物名の苗字が、俳優のそれに変更されていた点である。こうした、一見些細ともみられる操作は、俳優が『熱海殺人事件』における役を演じるのではなく、生身の身体ごと『熱海殺人事件』へ入っていくことを、まずは意味する。つまり、俳優たちは登場人物を演じるというよりは、劇世界の中で、登場人物と自分自身とを生きる演技が求められるのだ。しかもそれは、つかこうへいによるクリエイションのエッセンスでもある。唐十郎は、よく知られたつかの稽古の様相を、次のように語っている。

 彼は稽古場で台本に頼らない。この役者はどう生きてきたのか、どんな声を出し、どんな肉体言語を持って生きてきたのかを探りあてようとします。そしてそれらの問いを役者へぶつけながら、台詞をつくってきたといいます。そしてその「舌」から生まれてくる芝居は、役者の物語でありながら──それをその場で生み出していく中で、自分の体験を追体験していくという──つか君自身の物語となる。そうやって組み上がった世界を、役者に再体験させることを繰り返して彼は芝居を作ってきた。そうして演出家と役者の戦いによって生まれた作品を、観客が再々体験するという仕掛けになっているんじゃないでしょうか。(「彼もまた特権的なる……」、『文藝別冊 つかこうへい 涙と笑いの演出家』河出書房新社、2011

 もちろん、長野県バージョンにおいても、原作の台詞はそれとしてある。ただし、劇中劇としての構造をもつ『熱海殺人事件』に対して、没入するのでもなく、虚構と現実とを対象化して区別するのでもなく、つかがそのクリエイションに際して俳優の人生を半ば強引に劇中も持ちこんだように、演出家・仲田恭子は名前の操作によって、絶妙な距離を劇全体に仕掛けていたのだ。そのことによって、長野県バージョンでは『熱海殺人事件』という物語に、役者の物語が重ねられることになり、その重ね方に演出家の物語もまた重ねられていく。しかもそれが、長野県上田市で上演されることで、観客はその全てを、他ならぬ長野県の物語(=長野県バージョン)として、観劇‐体験していくことになる。

 こうした絶妙な距離は、男/女や都会/地方、職工をめぐる差別的言辞を含め、圧倒的な理不尽さと暴力性を擁した『熱海殺人事件』に対して、複数の仕方で確保される。1つは、時折差し挟まれる、しらじらとした間、毒気を抜くようなネタ(『北の国から』、宮尾すすむetc)、奇抜な衣装等々と、それらによってもたらされる客席の笑いである。もう1つは、行き過ぎた感さえある大音量、光の明暗、俳優の言動の速さ‐強さと、それらによってもたらされる、台詞(の意味)の是非をこえたスペクタクルである。いずれも、それ自体不条理ではある『熱海殺人事件』の物語内容へ、観客を強引に没入させていくと同時に、それを禁止する。こうして観客は、殺人事件らしさ‐殺人犯らしさを求め続ける『熱海殺人事件』の不条理さを、不条理と思いつつ積極的に肯定していくことになるだろう。

 こうした『熱海殺人事件〜長野県バージョン〜』では、それゆえに、正しく2時間の上演時間が必要であり、それこそが適切な上演時間である。刑事たちが(大山金太郎改め)水嶋金太郎を殺人犯へと演出し、それによって金太郎が殺人犯へと成長し、その過程の総体を観客が目撃‐承認していくのに、それは必要かつ適切な時間なのだ。実際、仲田恭子による「熱海殺人事件 演出ノート」(当日パンフレット)には次の一節が読まれる。

演劇活動をしていると、時々こういう長い芝居を創る機会がある。もちろんやりようで短く、なんていう場合も題材によってはあるだろうが、この芝居はこの時間があってこそ、その時間をかけることでしか見せられないことが多いように思う。

こうして、劇場を「笑いと興奮の渦」に巻き込んだ『熱海殺人事件 長野県バージョン』には、だから、俳優たちのエネルギッシュな演技が生成するワイルドな煽情性ばかりでなく、よく計算された演出の賜物として、むしろ端正といってよい佇まいもまた感じられた。

 

(松本和也/神奈川大学)

| レビュー | 11:56 | - | - |
アートひかり「王様盛衰記」レビュー

神奈川大学、日本近現代文学・演劇の松本和也さんに「王様盛衰記」のレビューを書いていただきました。

 

https://uemachiengekifes.tumblr.com/review

 

どうぞお楽しみ下さい!

 

 

| レビュー | 07:56 | - | - |
上田街中演劇祭2017「王様盛衰記」レビュー

上田街中演劇祭2017「王様盛衰記」レビュー

 

 

「上田街中演劇祭2017」参加作品の1つ、アートひかり公演『王様盛衰記』(作:ギィ・フォワシィ、翻訳:山本邦彦、演出:仲田恭子)は、軽妙なテンポで饒舌に語られる王様の盛衰が、実に〈演劇〉らしく展開される、〈演劇〉らしさにこだわった佳品であった。
 
 公演チラシで「社会的な暗部を独特なタッチで描くフランスのブラックユーモアの巨匠・フォワシィ長編一幕劇」と紹介される『王様盛衰記』は、会社勤めで疲弊したサラリーマンたる夫が主人公である。その王様の帰宅後の様子が、同居する3人の女性(王様の妻とその母、妹)とのやりとによってコミカルに演じられていく場面が『王様盛衰記』の大半を占める。王様がそう呼ばれるのは、家庭での傍若無人な振る舞いを承認/揶揄する、女性3人/作者による見立てでもある。実際、王様は背広姿にマントをまとい王冠をかぶって舞台に登場することになるのだが、開幕当初は女性3人のみが登場し、劇は次のように始まっていく。

    三人の女はじっと待っている。しばらくして
  母 このおだやかで平和な暮らしのなかで、
    あたしたちは王様を待っています。  
  妹 でも、王様なら誰でもいいわけではなく……
  母 あたしたちの王様です。
  妹 でも、王様なら誰でもいいわけではなく…
  母 この王様です。

 この直後に、妹が、舞台の上段に据えられた回転式の肘掛け椅子を回し、すると、「生気なく、ぐったりして座っている」王様が姿をみせる。3人の女性がその王様について「お話する」というのが、『王様盛衰記』の基本的な枠組みである。つまり、観客席からは4人の登場人物(王様、妻、母、妹)が見えているのだが、舞台上での3人の女性は王様を語ると同時に、過去の出来事を再現=上演してもいく。従って、3人の女性は、王様と過ごした時間を再現=上演すると同時に、この劇の語り手として観客に語りかけてもいくのだ。

これを観客の立場から整理すれば、3人の女性が王様のことを語るという劇の中で、劇中劇として過去の出来事が再現=上演されていくのを観ることになる。こうした枠組みの中で、王様はひたらす会社での労苦を語り、家庭では我が儘を通す。この時、王様の根拠となるのは、自分が働いて家族を食べさせていることで、いわば女性3人の「幸せ」は王様の労働ゆえに成立している。それゆえ、劇の後半、妻が仕事をみつけて社会参加することで、4人のパワーバランスは変容していくし、劇も急速に終焉に向かっていくことになる。

こうした『王様盛衰記』には、フェミニズムにも通じる女性の生き方や、社会/家庭における男女の関係、労働の問題等々が、アクチュアルなテーマとして読み込めもするのだが、ここでは、本作の背景である1980年代のフランスやそれに重ねられる現代日本と照らしながら、内容に踏み込むということはしない。そうではなく、そうした内容が他ならぬ〈演劇〉として構成‐上演されていたことにこそ注目したい。というのも、そうした局面こそが、本作の演出‐演技と深く切り結ぶことで、アートひかり『王様盛衰記』を成立させるポイントとなっていたのだから。

 それを具体的に言えば、たとえば俳優による発話モード(の切り替え)に、よくあらわれている。この作品を演じる俳優は、虚構世界において登場人物同士で会話をするかと思えば、次の瞬間には話題の人物である王様、あるいは実在する王様に言及し、そのことを観客(席)に向けて語りかけもする。こうした発話モードの切り替えが、単に相手を異にするばかりでなく、舞台(虚構)/観客席(現実)といった水準をも異にする中で、巧みな語り=劇のテンポをそのままに、しなやかに転じられていくのだ。そのことが、先に述べた『王様盛衰記』の枠組みを明らかにしつつ、その特徴を浮かび上がらせていく。しかもそれが、形式主義的な方法論によって、というよりは、作品世界を丸ごと包み込むような、しなやかな作品理解に基づくフレキシブルな演出によって成立している、というのが、仲田演出の特徴であり最大の強みである。確かに、『王様盛衰記』を上演する俳優達の物語と(それらを内包するところの)『王様盛衰記』という物語とが併走していながら、そのことがブッキッシュに悪目立ちすることなく、多層的な〈演劇〉の面白さを、観客はただただ目の当たりにしていくばかりなのだ。そんな贅沢な時をもたらす劇にも、次のようにして、終わりが訪れる。

彼女 (王様のそばに座って)さあ……これでおしまいです……私たちの王様のお話は……私たちのお話の仕方、ずいぶん下手くそだったでしょ?……あなたはいい役じゃなかったわね。でも仕方ないわ……私たちみたいな三人がお話したのですから……だから当然……

 こうした戯曲を選んだことそれ自体が、キャスティングとあわせて、上演以前において演出家自身が演出の特徴=特長をよく知悉していたことの証左であり、その時点で半ば成功は約束されていたのかも知れない。その演出によくこたえた俳優陣の演技が、それを確かな〈演劇〉にしたことはいうまでもないのだけれど。

松本和也 2017/10/07

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