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2005年3月発足!!
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「楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜」レビュー

反転・等価・突破──楽屋に生きつづける女優

 

アートひかり演劇公演『楽屋』(原作=清水邦夫/演出=仲田恭子)を難波サザンシアターで観劇して、演劇ならではの楽しみを味わったのだけれど、その楽しみの体感(の根拠)は、作品としての出来はもとより、俳優が魅力的に見えた、ということに尽きる。俳優が―――『楽屋』にあわせていうならば、女優がすぐれて魅力的に見える時、その舞台は魅力的である他なく、それはつまるところ、優れた舞台芸術ということになるだろう。少なくとも、『楽屋』は、戯曲自体にすでにそういう仕掛けがあり、今回の上演はそれをよく引き出していた。

 

『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』は、文字通り、楽屋に棲まう女優4人が、舞台上で女優として演じることをめぐる、業とも呼ぶべき欲望を、露悪的なまでに、しかし詩的に吐露した一幕物で、戯曲=上演自体が女優論・演劇論となっている。別言すれば、「演劇とは何か?」という問いが、戯曲=上演において実践されていくというのが『楽屋』の特徴でもある。さらに、そうした戯曲の特徴は、本作の演出家である仲田恭子の持ち味でもある。――さまざまな原作から、モチーフ/ストーリーを視聴覚化するだけでなく、それらを「演劇とは何か?」という問いに変奏しつつ上演していくのが仲田演出のきわだった特徴(の1つ)である。ならば、仲田が『楽屋』を演出したら、つまり演出プラン自体が原作に織りこまれているような作品を演出したならば、その時、舞台上では何が起こるというのか。

 

生涯、名作の主要登場人物を演じることのなかった女優が、その生を終えて後も楽屋に通っては、出番を待つかのように化粧にいそしむ。従って、彼女たちが居ついている楽屋こそが、『楽屋』においては楽屋ではなく舞台である。また、同様にして、楽屋という舞台において名作の名ゼリフを、断片的ながらも、朗々と演じる彼女たちこそは、プロンプターではなく女優である。そう思わせるに十分なほど、今回の上演において日陰の女優たちの、緩急おりまぜた巧みな語りは、存在感があった。それらは、楽屋で、プロンプターが、死者として演じる芝居にしては、心地よいほどに生々しかった。そうであれば、『楽屋』という戯曲/この上演においては、劇作の設定上は楽屋であるにせよ、ここが本舞台であり、ここで演じる女優こそが正しく女優だということになる。そして、それ以外の属性は、問われなくなる。役つき俳優/役のつかない俳優(プロンプター)、舞台/楽屋、生/死等々、大きな懸隔のある2つの世界は、戯曲の設定/演出・上演によって、反転し、等価になっていく。いや、もっと乱暴に、それらを等価にしてしまえばいいのだ、というのが仲田演出の『楽屋』であり、そこで演じる女優たちの言動であったように思う。してみれば、この上演における演出とは、楽屋という境界線がもたらす残酷な悲哀をなぞることではなく、その境界線自体を突破することにあったのだ、といえば、文字通り楽屋の芝居に騙されたということになろうか。

 

(松本和也/日本現代演劇史)

 

松本和也さんによる過去のレビューはこちらで読めます

 

◆上田街中演劇祭2018「熱海殺人事件〜長野県バージョン」レビュー

http://art-hikari.jugem.jp/?eid=219

 

◆上田街中演劇祭2017「王様盛衰記」レビュー

http://art-hikari.jugem.jp/?eid=220

 

 

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